生きる為のひとつ

趣味で小説を書く者です。

ふと我に返り感傷に浸る

いつもはおちゃらけた阿呆を演じている私ですが、そういう阿呆の最中にふと我に返り「自分はこんな阿呆な事をしてていいのか。どっちが本当の自分なんだ。私の生きる価値はなんだ」と考える時があります。

そもそも人に価値を付けることは無意味だと思っていますが、価値を見いだされた人間程生きる事に貪欲になるのではないでしょうか。

人は二度死ぬと申しますが、私の中での死はやはり元々唱えられている肉体的な死と、もう一つ精神的な死があり、私は既に精神的な死を迎えていたので、価値を付けられる程の人間ではございません。

私の精神的な死とは経験からして、社会からリストラされ孤立し、精神病にかかり、皆が居なくなった後残る物はお金ひとつも無いという事が私にとっての精神的な死であり、私はその限界をも超えた位置に着陸しています。

悲しみはお金に代えられるものではありませんが、傷心旅行をするのにもお金はかかるでしょう。

ふと我に帰った時にこの事が一瞬のうちに頭を過り、私がどれほど塵や屑よりも価値がない存在なのかという事を改めて脳内や心に捩じ込まれます。

そんな私が今生きている理由もどこかにあるかもしれません、私が生きてても誰かが価値を見いだしてくれるかもしれない、ふとした所で何か才能に芽が出て誰かが良くしてくれるかも知れない、そんな他人任せで卑劣な淡い期待を胸にただ毎日無意味な時間を過ごしているのです。

これも感傷に浸るとでも言うのでしょうか、私にはわかりません。

人生において全てがマイナスでしか無かった私にとって、人生そのものが感傷に浸る事を引き起こす要因として、私に居座ってるのかも知れません。

まだ二十一なのにそんな、精神病だなんて、気の持ちようよ、シャンとしなさい、とどれだけ多くの人に言われても私を動かしていたはずの私ももう既に何者かに停止させられてしまっている。

そんな私になんの価値が有るのでしょうか。

 

 

@harukisn