生きる為のひとつ

趣味で小説を書く者です。

意味の有る人生

こんばんは、春生です。

 

最近仲の良かった高校からの友人と縁を切り、若干のもやもやを抱えています。

二ヶ月前にとある相談をしたら何かが気に触ったらしく、その時に友人に謝罪してその時は普通に穏便に終わったのですが、二週間前にとある質問のメールをした所丸一日返ってこなく、そのまた一週間後にもう一度謝罪したにも関らず三日返信がなく、三度目の正直と言いますか、三回目の謝りメールをいれ、やっと返信が来たと思ったら二ヶ月前の事で失望したやらなんやらと、一度終わった事を蒸し返され、あの件で呆れたとウダウダ文句を垂れてきたので面倒になり、こちらも長文で「ただ存在として面倒でメールを返すのも面倒だったから、返信しなかった理由として二ヶ月前の事を蒸し返してるのでは?」と言ったところ、図星だったのかあちらから何も言い返せなくなり、私も面倒だったのでもうこちらから二度と連絡しないと吐き捨て、さようならをしました。

その人とは五年ほどの付き合いになりますが、こんな簡単に、些細な事で関係が終わるんだなー、と改めて人間関係の怖さを実感しました。

そのうちどうせ切れていた関係ならはっきりさせといて良かったな、と今は思っています。

 

さてタイトルの話ですが、この間「今は両親が居るからいいけどいつかみんないなくなるんだよな」と言うような質問をされました。

「そりゃあ居なくなるよ、自分もあなたも」と返しましたが、居なくなった時に次の生きる糧が無ければ前に進めない、とその人は嘆いていました。

「今そんな事考えても、その時にならないと分からないこともある」と慰め、私の生きる理由について語りました。

私は生きづらさを昔から感じていて、最近自分が高機能自閉症だと言うのを知ったのですが、知るまでの間は本当に周りと合わないことだらけで生きてる意味も分からないぐらいに心が病んでいて、仕事も上手くいかず、夢である物書きになることも出来ず、死のう、二十歳までには死のう、と思っていました。

もちろん自殺未遂もありました。

けれどそんな時、目の前に今の愛犬であるチワワが舞い降りました。

その時に私は生きる意味を見つけました。

この子に生かされているのなら、生かされている間は生きてやろうと思いました。

生かされてるいる間は普通に生きてやろう、と思い始めて一年そこらで、拒食症気味になっていた体重も元に戻り、今は元気を取り戻しました。

物書きを諦めた訳では無いけれど、今までは自分が生きていたことを、自分が死んだ時に多くの人に認知されることが意味の有る人生だと思い、文を書いていましたが、思考も変わり普通に働いて人生経験を豊富にさせてやろうと言う思考に変わりました。

話が逸れましたが、私は生きる糧が無くなったら別に無理に生きる必要も無いと思います。

賛否両論の嵐になるであろう言葉かも知れませんが、私も愛犬が居なくなれば生きている意味も人生として意味の有る人生では無くなるので、無理に生きようとも思いません。

けれど、それでも生きようとすれば生きる糧は自分の前に舞い降りてくると思います。

それは偶然ではなく、必然として、当たり前のように降りてくると思います。

私も今の愛犬に出会う前に飼っていた愛犬がなくなった時、もう生きている意味もないと思いましたが、そこから何とか半年生きて、生きる糧を見つけました。

彼は私を助けるために生まれてきてくれた、と勝手に馬鹿馬鹿しく思っていますが、生き永らえた先に生きる糧は必ずあると思います。

結論は親が居なくなったら〜と考えるよりも今を共に生きて、それでもいつかは無くなる、けれどその先にまた新たに生きる糧は必ず有りますよ、と言うのを伝えたかっただけなんです。

人それぞれの考えなので正解は無いですが、死のうと思ってもその先に必ず救われるものが有ります。

あなたを必要として生きる糧にする者も居ます、互いに生きる糧になる存在が出てきます。

その時に幸せを感じたら、それは意味の有る人生として変わってくると思います。

 

長々と失礼しました。

最後まで読んでいただきありがとうございます。

 

 

@harukisn