春生志乃の喜怒哀楽

投稿したネット小説の宣伝や日常的な事を中心に書いています

要る存在と要なくてもいい存在につい

たまに、たまにだが、自分が誰かにとって本当に要る存在なのかと、自分自身に問う時がある。


あの人にとって自分がどの程度の人間なのかだとか、突然居なくなっても気にならない存在だとか、まあ誰しも一度は思った事があるだろう。


私は何かと機能不全な(親が離婚している)家庭で育ったのだが、母親に男ができるたびに自分の必要性について考えた。



「ああ、もう要らないのか」と何度も考えて、自殺未遂紛いの真似までした事さえあった。


いわゆるSNSだってリアルと同じ様に、仲の良いグループなんかが出来て、最初は「ああ楽しい。居場所がある」だなんて思うけれど、所詮は他人であるから、いつの間にかズレなんかが生じて、突然消えてみたりして、でも案外気付かれなかったりするのだ。


じゃあ自分にとっての居場所とは一体どこなのだろうか。


自室に引きこもろうが、それは殻に閉じ籠ったヤドカリみたいなもので、人間には誰かに必要とされなければ、本当の生きている意味なんて無いのではないか。


彼は私に「困難から逃げてもいい」なんていうけれど、これは困難と言うものでもない。


多様な人間がこの世には存在して、多様なりとも誰かに必要としてもらい、多少なりともその関係で世界が出来上がっている。


それを困難と言うのであれば、みんな逃げているし、この日本自体も平穏では無くなってしまう。


誰かが自分の他人への必要性について考えて、気を使って、合わせていかなければ、簡単に世界なんてものは崩壊してしまう。


だから私は、いつも自分の必要性について考える。


要るのかそれとも要らないのか。


そう考える事で、  自分が気に病もうが、世界は平穏に回り続けている。


そうしたらもっと「ああ自分は居なくてもいいのか」なんて思う。


私にとっての困難は、要らない自分が存在していることだ。


じゃあ死ねば済むかと言う話でもないのだけれど、最終的に逃げるとなれば、その道も一つなのかもしれない。


けれど私が自殺未遂までして未だ生きているのは、結局、他人に自分を必要としてもらいたいからなのだ。


私が死んだら心にこのくらいの穴ができるんだぞ、だとか、他人にとってはちっぽけなものだ。


人間は、いくら必要とされても結局は全て満たすことは出来ないのに、どうしてそこまで、私は、人間は、他人からの必要性を求めるのか。


結局色々ここまで語って来たが、人間はみんなただの寂しがり屋なのだ。


今そう思って居ない人間であっても、何かにぶち当たった時に、きっと「自分自身の必要性」について考えるだろう。


私から言える事は一つしかない。


それはただ寂しいだけだ、それだけ言えば充分だ。


寂しいのは、きっといつか何かで埋められる。


私が言えば、例えば小説を書いて他人に見てもらい、自分の内面を見てもらうことだ。


だから今現状で必要性について考えている人も、これから考えるであろう人も、死ぬ事なんて考える必要はない。


寂しさが癒えれば、必然と自身の必要性は勝手に、自分の中にも他人の中にも湧いてくる。


死を考えた時点で逃げたとは思わない。


私も死にたいと思ったり未遂だって何度もした。


けれど今生きているのは、やはり小さな事でも、たった一回きりのつまらない事でも、自分への必要性が感じられたからだ。


私はまだくだらなくも、自分をもっと他人に見てもらいたいし、埋もれている人も見ていきたいと思っている。


お互いそうしていく事で、自然と寂しさも、必要性も、いつかは考えなくなるだろう。



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